最後の夏

2000年に長男が生まれました。

2002年には長女が誕生しました。

この頃仕事が変わり、子育てと仕事の両立で本当にバタバタしていたのだけは覚えています。

子供は2人でいいかな?と思っていたのですが、自然な流れで2006年に末っ子が生まれました。

末っ子が生まれたのは12月29日!

私の仕事がまさに「超繁忙期」の時です。

予定日は1月末でした。

まださすがに出てこないだろう!年明けにゆっくり出産に立ち会おう!

なんて気楽に考えていた矢先にカミさんの陣痛が始まりました。

私はその日いつものように仕事をしていました。

とにかく忙しくて夢中で車の下に潜り作業をしていたのを覚えています。

カミさんが病院に搬送され分娩室に入ったと電話を受けましたが、この状況で仕事をほったらかすわけにもいかず不安の中過ごしていましたね。

すると1時間後!

「無事生まれました!男の子よ!」と義理の母から会社に電話が入りました。

ピット内にある小さな子機で車の下に潜りながら朗報を聞いたわけです。

すぐにでも飛んでいきたい気持ちを抑えながら仕事を終え急いで病院に向かいました。

1ヶ月も早く生まれた末っ子は保育器の中で気持ちよさそうに寝ていました。

長男・長女が生まれた時以上の感情が込み上げてきたものです。

翌日、末っ子を抱っこさせてもらった時なんだか妙なものを感じました。

上手く言葉には出来ないのですが「こいつはひょっとすると大物になるのではないか?」という根拠のない期待でした。

 

 

末っ子には「広務」と名付けました。

私が昔から好きな名前でした。

政治家の「野中広務」から取ったものでもあります。

野中広務」という名前を最初に観た時「広く努めるなんてストレートでいい名前だな」と思ってもいました。

その後、「野中広務」の半生を調べてみたら本当に凄い人でして・・・

長く政治不信が続いているこの国では「大物政治家=悪者」のイメージがどうしてもありますが、タブーとされていた部落解放に尽力した彼の功績はもっと多くの人に知ってもらいたいと思ってもいます。

 

そんな「広務」ですが、生まれた時から「こいつには絶対に野球をやらせる!」と決めて育てました。

長男に野球をやらせることも考えましたが、どこかどんくさくておとなしい性格だったため断念。

私の夢は広務に託されたわけです。

 

 

生まれて最初に握らせたのはもちろん野球ボールでした。

まだ歩くことも出来ない息子にグローブも買い与えました。

自分が野球をやりたくてもやらせてもらえなかったコンプレックスを広務にぶつけたようなところもあります。

それでも私は完全な素人です。

スパルタ指導をするわけでもなく野球というものに興味を持ってもらえるようにだけを考えて育てました。

 

 

4歳になると近所に出来た「元プロ野球選手が指導する野球アカデミー」に入れました。

本当に楽しそうで野球を心から好きになってくれたようです。

横浜スタジアムにも多い年で年間25試合も観に行くようになり、気が付けば野球ありきの生活になっていました。

小学4年生から少年野球チームに入り、6年生では主将を務め、中学校ではあえてクラブチームには行かず学校の野球部を選択。

高校は野球強豪校へ行くと思いきや!公立高校の野球部に入り汗を流しました。

 

 

そんな息子の高校野球もいよいよ最後の夏です。

夏の大会が幼いころから14年間続けた野球の集大成でもあります。

公立高校の弱小野球部ですので県大会はおろか、甲子園なんて夢のまた夢です。

それでも昨年は先輩たちの活躍もあり、学校としては10年ぶりの3回戦へ進出しました。

今年は4回戦へ進出すべく努力をしてきたことでしょう。

 

 

私も保護者会長として最後の大仕事が待っています。

息子の最後の夏をしっかりと見届けるべく、仕事は2か月間セーブしました。

はたしてどこまでやり切れるのか?

不安と期待が入り混じる7月となります。