下北半島観光

夜9時に神奈川県を出発し早朝5時には青森県に入りました。

それでも脇野沢まではまだまだ2時間半ほどかかりそうです。

ナビを見ると到着予定時刻は7時30分!

あまり早く着いても仕方がないので下北半島を観光することにしたんです。

 

 

まず向かったのは「恐山」

 

 

日本の三大霊場の1つです。

(ちなみに残り二つは「比叡山」「高野山」です)

 

 

死者が訪れる場所!死者に会える場所!なんて言われる有名な観光地です。

ここを訪れたのは小学5年生の時ですかね?

初めて訪れた時のあの不気味さ、何とも言えない雰囲気に驚いたものです。

弟は記憶が曖昧なようでしたのであらためて訪れてみました。

 

 

早朝6時45分。

朝っぱらから開いているのだろうか?

誰かいるのだろうか?

ちょっとだけ心配になりながら現地に着くと、なんと!6時から開いているようです。

おまけに地元の方が数人お参りに来てもいました。

 

 

40分ほどかけて参拝をしてきましたが、やはり何度来ても不思議な感覚に襲われる場所ですね。

昔入ったお風呂も健在でした。

 

 

この時点で時間はまだ7時30分!

まだまだ寄り道できそうな時間です。

車を走らせていたらこんな看板が目に入りました。

「大間 35キロ」

 

 

35キロは相当離れた場所ではありますが、ここまで800キロ近く車を走らせてきた自分には「すぐそこじゃん!」なんて感覚に陥りまして、そのまま大間に向かいました。

車で結局1時間半ほどかかりましたが、生まれて初めての大間崎に到着です。

 

 

そして大間と言えば「マグロ」!!

と言うわけで朝からこちらをいただきました。

食べログで評価が高かった「あけみちゃん号」というお店です。

 

 

食べた感想はと言いますと・・・

「普通」の一言でした。

 

 

私の住んでいる神奈川県の横須賀の三崎もマグロが有名でよく食べに行きますが、正直レベルも価格もこちらの方が上でしたかね?

築地で食べたこともありますが、やはり美味しいものは関東に集まるというのは本当のなのかもしれませんね?

 

気を取り直して大間のあとはいよいよ脇野沢へ向かいます。

海沿いの道を通りながら「仏ケ浦」も遠目で見ることが出来ました。

(昔親戚の漁船に乗って家族全員で訪れた記憶が蘇ります)

 

 

ずいぶんと寄り道をしましたが、正午過ぎに無事に母の実家に到着!

15時間のロングドライブでした。

 

 

下北の脇野沢へ

7月に祖母が亡くなりました。

今から8年前に祖父の病気により青森県の田舎から私の実家に引き取りることに!

9年前はまだまだ元気いっぱいだった二人ですが、年月の経過とともに介護が必要になってきまして、母が実家で面倒を見ていました。

妹が病に倒れてから10年間の看護生活!

その後は自分の両親の介護生活!

霊長類最強のパワフルな母も時々疲れた様子で私に愚痴をこぼしていましたね。

祖父が5年前に他界し祖母だけが残りましたが、そのタイミングで祖母は特別養護老人ホームで余生を過ごしていました。

そして先日その生涯を静かに終えたんです。

 

 

25年ぶりに母の実家のある青森県は下北の脇野沢に行きました。

祖母の納骨と残されたお墓や家を処分するためです。

 

 

母の実家は下北半島の突端、むつ湾に面した脇野沢という場所にあります。

その昔は下北郡脇野沢村でしたが、平成の大合併により今はむつ市脇野沢になっています。(村から市になりましたが人口はどんどん減少中です)

本当に何もない静かな田舎です。

幼少期は毎年夏休みになると必ず2週間ほど遊びに行っていました。

毎年親戚一同が集まり、お盆の行事や夏祭りを楽しんだものです。

しかし、中学生になると日々の生活が忙しくなり帰省することもどんどんなくなっていきました。

実はこの地を訪れたのは25年ぶりです。

最後に行ったのは19歳の大学生の時でした。

 

当時、バイトと遊びに夢中になっていた私は大学にも行かずに堕落した生活を送っていました。

いわゆる「大学デビュー」というやつでしょう。

たくさんの女の子と遊びすぎて、本命の彼女から別れを告げられ落ち込んでいた時期でもありました。

もちろん霊長類最強の母が黙っている訳はありません。

連日怒号が飛び交い、とうとう家にも帰らなくなっていました。

そんな時、母から告げられた一言「青森へ行っておいで!」

これが私の人生を大きく変えたんだと思います。

私はしぶしぶ母の言いつけに従い3週間脇野沢へ滞在することになりました。

電車とバスを乗り継ぎ14時間ほどかけて到着した時、祖父母や村にいた親戚の人達は私を歓迎してくれました。

それからというもの連日母の実家に親戚が集まり、私の歓迎会が繰り広げられたんです。

昼間には祖父母が中心となって活動してた老人会の会合やイベントに出席しお手伝いもさせられました。

携帯の電波はもちろん通じません。

TV番組も東京のように気軽に見られるものばかりではありません。

毎週月曜日に発売される少年ジャンプも水曜日にならないと村には届きませんでした。

そんな何もないところで自分と見つめ合った3週間は本当に貴重な時間でしたね。

祖父母や親戚に可愛がってもらいましたし、本当の自分を取り戻せたような時間でした。

 

 

そんな脇野沢へ25年ぶりに行くことになり、最初に迷ったのは交通手段です。

東北新幹線を使ってもその後、ローカル線&バスを乗り継いで4時間はかかる場所です。

飛行機で行っても一日数便しか出ていないフェリーに乗れるか?不安もあります。

そこで今回は車で向かうことにしました。

とは言え、マイカーを数日間も使うとカミさんが困りますのでレンタカーを借りてみました。

しかもBMWの5シリーズ! Mスポ!

 

 

この相棒と共に横浜を夜9時に出発したわけです。

途中で埼玉に住んでいる弟を拾いあとは北へ北へと車を走らせました。

 

 

深夜の東北自動車道をほとんど休憩することなく爆走すること数時間・・・

朝5時には青森県の七戸に到着!

どんだけ飛ばしたんだ?と自分でも思います(笑)

 

 

ナビを見るとあと2時間ほどで到着してしまいそうです。

しかし、そんなに早く到着してもやることはありません。

そこで弟と相談して寄り道をすることに・・・

 

つづく

 

ミスター雨男

自分が「雨男」だと気が付いたのは40歳を過ぎた頃でしょうか?

きっかけは2年前から始めた草野球です。

取引先となんとな~く始めたわけですが、最初の活動日も午前中は雨が降っていました。

夜になり雨が止んだことで初めての活動は何とかできましたが、第2回・第3回と計画をするも全て雨で活動が流れました。

極めつけは第4回目の活動日!

この日も朝から雨が降っていまして正午にはやみましたが、グラウンドコンディションが悪い!とのことで管理会社から連絡がありました。

さすがに3回も雨で流れてはせっかく始めた活動に文字通り水を差す形となります。

何とか交渉してグラウンドを使わせてもらいましたが、案の定泥だらけになり満足の行く活動は出来ませんでした。

そもそも始めたのが6月の梅雨時期だったこともありますが、「なんでこんなにもついていないのだろう」と思ったものです。

そしてこの時気が付いたんです。

「自分は雨男だ!」ということに・・・

 

 

思い返せば幼少期から屋外での活動日は雨が多かったです。

保育園の運動会・小学校の遠足・中学校の修学旅行・高校の文化祭・学生時代の女の子とのデート・・・

記憶に残っているような大きなイベントは雨で順延したり、土砂降りの雨の中参加したものです。

一番記憶に残っているのは小学4年生の運動会でしょうか?

昔から体育が大嫌いでしたので、運動会というイベントはあまり好きではありませんでした。

ましてや親が見に来るなんて私には憂鬱そのものだったんです。

霊長類最強の母の目の前で何か失敗でもしでかしたら、夜はボコボコにされかねないからです。

この年、私はなぜかリレーの選手に選ばれました。

特別運動が出来るわけではないのに、たまたま測定会でいいタイムが出てしまったんです。

クラスから男女4名がリレーの選手に選ばれましたが、そのうちの一人になってしまいました。

クラスメイトからは「なんでお前みたいなチビが・・・」とからかわれたりもしました。

それでもせっかく手に入れたチャンスです。

私は一生懸命練習に励みました。

両親も「おまえがリレーの選手になるなんて信じられない!見に行ってやろう!」なんて盛り上がっています。

(ちなみに運動神経抜群の弟は6年連続リレーの選手でした)

そして迎えた当日!

朝から雨が降り運動会は順延となりました。

それなりの準備をしていただけに非常に悔しかったのを覚えています。

翌週に順延になったのですが、翌週もこれまた「雨」でして・・・

結局平日に行われることになりましたが、保護者の大半が見に来られなかったのでイマイチ盛り上がることなく終わりました。

ちなみにこの時リレー戦で私のチームはダントツの最下位でしたね。

 

大学生の時にすごく好きになった子をデートに誘いました。

何度もアプローチしてやっともらえたデートの約束!

私は張り切ってプランを練りました。

そしてデートの定番である東京ディズニーランドに行ったんです。

9月の下旬のことでした。

その日は台風が接近し大荒れの天気でした。

その子とどうしても出掛けたかった私は悪天候を承知で舞浜に向かったんです。

行きの電車の中でその子は終始不機嫌そうでした。

結局お互いにカッパを着てアトラクションを楽しみましたが、その日の為に綺麗な格好をしてきたその子はずぶ濡れになり、私もパンツや靴下までずぶ濡れ状態!

非常に気まずい雰囲気のまま午後3時には家路につきました。

 

大人になり山登りを始めました。

会社の定休日に合わせて何度も山へ行こうとしましたが、雨の日が多く思うように登ることが出来ませんでした。

一度だけ雨を覚悟して山登りをしたことがありましたがえらい目に遭いまして・・・

山をなめてはいけませんね?

 

ゴルフも3回に1回は雨の事が多いです。

あまり好きではないので中止になるとちょっとだけ嬉しくも感じますが、雨の中プレーすることも多い印象です。

 

会社でもそうです。

私が大きなイベントを組むと天候が荒れるというジンクスがあります。

年に2~3回ですが会社でイベントを行っています。

店頭にテントを張り、豪華な景品が当たる抽選会を実施したりするのですが、毎回初日は雨ばかり・・・

数年前には強風でテントがあおられ、道路に飛び出す寸前でした。

4年前にハロウィンイベントを行い、地元の方々に無料でお菓子を配る企画を行ったのですが、2日間共に雨で300個用意したお菓子が292個余りました(笑)

 

極めつけは明日予定していた大切なイベントです。

以前もお話ししましたが、末っ子がお世話になった中学校時代の野球部の顧問の先生。

生徒ととにかく深い絆で繋がり、保護者同士も非常に仲良しでした。

部員も30名以上いて上手な子ばかり!

市大会3位まで上り詰めたこともありました。

しかし、新型コロナの影響でその後の大会は全て中止に!

結果的に学校創立以来最強と呼ばれた野球部は静かに解散してしまいました。

その時の悔しさが先生にも子供達にもあるのでしょう。

「あの時は本当によかった~」という声が今でも聞こえてきます。

先生とよく呑んでいた私は今でもLINEで繋がっていて、もう一度、先生と子供達と保護者が集まったイベントを企画します!と張り切っていました。

そしてやっと明日そのイベントが開催されることになっていたんです。

先生も張り切っていて「子供達を知っている先生方全員連れて行きます!」と言ってくれました。

しかし!

明日の予報は完全に「雨」・・・

現在関係各所に開催可否の連絡をしているところです。

グループLINEなど存在しないので、息子やカミさんを通じて連絡しなければいけない為、朝からバタバタしているわけです。

先生、教え子達、そして保護者全員が楽しみにしているイベントだけに何とか開催したいのですが・・・ミスター雨男の本領発揮でしょう。

なんだか申し訳ない気持ちになりますね。

 

ちなみに私の友人にミスター晴男がいます。

彼はいつも「俺は晴男だから」と豪語しています。

そんな彼と私が出かける時にはほとんどが「曇り」だったりします。

これはこれですごい話でしょう。

 

日本の年間降雨日数は平均すると80~100日だそうです。

つまり3日~4日に1回は雨が降る国なんです。

だから雨男なんてゴロゴロいるようにも思えます。

でもきっとこの雨男ぶりは一生付いてまわるんでしょうね?

 

デブ活

私のベスト体重は53㎏!

身長が157センチしかないのでこれくらいがちょうどいい重さです。

小柄な人間にとって体重の大幅な増減は実は深刻な問題だったりします。

例えば・・・

 

80㎏の人の1㎏と50㎏の人の1㎏ではパーセンテージにすると1.25%と2%!

2㎏になれば2.5%と4%!!

3㎏ともなれば3.75%と6%!!

 

これだけの違いが同じ人間でも起こるのです。

だから私にとって数㎏の体重の増減は体にかかる負担がとにかく大きいわけです。

2㎏増えたら毎日2ℓのペットボトルを腰に巻き付けて生活しているような感覚になります。

 

身体が大きい人は比較的食べる量も多いでしょうが、小柄な人でも大食漢はいます。

外食に行っても食べる量はそれほど変わらなかったりもします。

だから、小柄な人間の方が圧倒的に太りやすいはずなんです。

しかし!

小柄な人間は何をするにも大きな人間の1.5~2倍の体力を使います。

移動する際の歩幅も小さいが故に大きな方の倍足を動かします。

高いところの荷物を取る際も、めいいっぱい背伸びしたりします。

重いものを持つときも大柄な人の倍以上の筋肉を使うことでしょう。

そう考えると食べた分のカロリーを消費しやすいのは圧倒的に小柄な人間でしょう。

小柄な人に太った人があまりいない理由もわかる気もします。

 

そんな小柄な私は、一年で体重が5~6キロ変動します。

不規則な生活が主な原因ですが、とにかく太ったり痩せたりを繰り返す体質です。

また、この体重の増減は毎年決まった時期に決まっただけ起こります。

まずは1~2月!

この時期はとにかく寒く、寒いのが苦手な私にとっては地獄のような季節です。

寒いのを何とかしのぐために脂肪を蓄えようとする本能が働くのか?この時期は決まって3~4㎏太ります。

2月の終わりには58㎏くらいになっていることが多いです。

3~5月は仕事の繁忙期に入ります。

朝から晩まで飲まず食わずの日々が2ヶ月ほど続くので体重が自然と減ります。

また、花粉症がひどいので極端に食欲がなくなったりもします。

5月の終わりにはいつも51㎏くらいになっていますね。

6月~10月までは運動を積極的に行い、比較的有意義で健康的な生活を送るので体重がベストに近づきます。

大体53~54㎏で一番体の動きが良い時期でもあります。

しかし、11月~12月にまたまた体重が激減します。

超繁忙期がやってくるからです。

毎年早朝から深夜までほぼノンストップで働き続けます。

48連勤なんてことも当たり前のように起こります。

2年前の超繁忙期にはスタッフが2名いなかった影響で2ヶ月で8㎏も痩せました。

みそかは毎年欠かさず体重測定をしていますが、49~50㎏が平均値です。

ちなみに2年前は48㎏まで体重が落ち骨と皮でしたね。

ちなみに体脂肪率も9%くらいでした。

 

そんな私が9月~10月にかけて行う事。

それが「デブ活」です。

11月からの超繁忙期にに向けてある程度体重を増やしておかないと体がどうしても持たなくなるんです。

だから今はとにかく高カロリーなものを食べ体を大きくしています。

高カロリーで比較的簡単に短時間で食べられるものと言ったら「ラーメン」でしょうか?

この一週間はほぼ毎日ラーメンを食べ続けておりました。

 

 

 

おかげで体重は現在54キロまで増えてきました。

体脂肪率も13%くらいまで上昇中!

来月までに58㎏くらいまで増やして超繁忙期を迎える予定です。

 

ところでこんな食生活や体重の不規則な増減をしてきて身体に害はないのか?

いつも気になるのですが今のところこんな生活を15年ほど続けてきて健康そのものです。

お酒も美味しくいただけていますし、運動のし過ぎで体が痛むことはありますが特に問題はありません。

きっと特異体質なんでしょう。

ボクサーにでもなったら3階級にチャレンジできそうですね。

 

美味しいものをしっかりと食べ、食べた分しっかりと運動をし激務に励む!

これが私の最大の健康法なのかもしれません。

 

商売はおままごとではない

ここ数年商売に関する相談を本当に多く受けます。

私自身、小売業に携わって22年!

経営者として5年!

それなりに経験を積んではきましたが、人に偉そうに意見するほどの人間ではありません。

それでも何とか商売を続けられているので、それなりに立派に見られるのでしょうか?

私自身、商売人には決して向いていないと常々思っておりますし、まだまだ経験不足は否めません。

だから多くの方から相談を受けることに戸惑いすら感じてしまいます。

 

40歳を過ぎると皆さん「そろそろ独立しようかな」なんて考える方が多くなるのでしょうか?

自分のこれまで培ってきた知識や技術で勝負したい!と思うのはある程度の年齢になれば自然な事なのかもしれません。

 

先日、取引先でもある自動車関係の会社に勤める後輩から相談を受けました。

その昔、私がスーパー銭湯でアルバイトをしてる時に出会った2つ歳下の後輩です。

彼の実家はスーパーエリート!

弁護士でもあり、不動産関係のビジネスを展開している立派なご両親のもとで育ちました。

そんな彼はもちろん頭のいい人間です。

しかし!彼は自動車に興味がありすぎて、両親の反対を押しのけ自動車整備の専門学校へ進みます。

そこで整備士資格を取得!

しかも1級整備士&検査員の資格まで簡単に取りました。

その後は特殊な車両を扱う会社へ入社!

抜群の頭の良さと、技術力を生かしてその業界ではそれなりに活躍していました。

しかし10年前、社長と仲たがいをしてしまい先輩従業員と2名で独立!

裸一貫で再スタートを切りました。

最初はなかなかお客さんがつかず苦労していましたが、今ではかなりの業績を上げているようです。

もちろん今でもビジネスパートナーとして月に数回取引も行っています。

そんな彼がいよいよ独立に向けて動き出しました。

先日「不安で仕方がないので相談に乗ってください」と言われ、仕事終わりに近くのファミレスで合流しました。

40を過ぎたオッサン二人がファミレスで真面目な話をしている様は滑稽だったかもしれませんね。

彼の話を聞けば聞くほど背中を押してあげたくなりました。

ビジョン、志、やりたいことと出来ることが非常に明確でした。

後は事業計画をきちんと数字化できるか?

銀行へ行き融資を受けられるか?

これにかかってるという話をしました。

(偉そうに言える人間ではありませんが、この時ばかりは先輩ずらしましたね)

彼は最後に「よし!これで踏ん切りがつきました!俺やりますよ!」と言ってくれました。

その時の目を見たらきっと彼なら間違いなくやっていけるであろうと確信しましたね。

もちろんこれからも応援していこうと思いますし、力になれることがあれば仕事を振ったりサポートをしたりするつもりです。

 

なじみの飲食店の閉店に思う、気力奪われる店主の無念 | 経済 ...

 

それとは別にこんな相談も受けました。

「パン屋&カフェをやろうと思うのですが・・・」

38歳の飲み屋で出会った友人です。

彼はIT系の会社でシステム構築の仕事を10年ほどしています。

3年前には結婚し、1歳の子供もおります。

そんな彼からお店を出したい!と相談を受けました。

これまた行きつけの飲み屋で話を聞いたのですが、この時ばかりは猛反対をしました。

まず、彼がお店を出したい理由!

それが「自分のペースで仕事が出来て家族のそばにいられるから!ゆくゆくは家族で経営が出来そうだから!」

その彼に開店資金はいくら用意してあるのかと私は聞きました。

無借金で始められてしばらく赤字でも家族が生活に困らないくらいの貯蓄があれば問題はないんです。

しかし、彼から返ってきた言葉は「100万円」

今ある貯蓄を全て叩いてお店をやりたい!と意気込んでいました。

もちろん、彼に調理の経験はなく飲食店での経験もありません。

ましてやパンを作ったこともないそうです。

さらに話を詳しく聴くと、どうやら奥様が趣味で時々パンを焼いているんだとか・・・

お店の規模、家賃、開店資金、仕入先、損益分岐点などはどこまで考えているのか?尋ねたところ「なにそれ」という感じでしたね。

まず、客数10名ほどのカフェを始めるためには30~50万円ほどあれば開店は出来るでしょう。

次に、料理やコーヒーも見よう見まねでやればなんとかなるでしょう。

しかし、そこからさらに収益を上げなければ生活は成り立ちません。

家賃に10万かかったとして月の売り上げは単純に計算しても25万は無いと維持できません。

さらにそこから自分の給料を取るとなれば50万以上の売り上げが必要になるはずです。

客数10名ほどのお店で25日営業して50万の売り上げを上げるには毎日2万ほど稼がないといけませんね。

しかし、カフェの客単価なんて所詮1000円~1500円です。

毎日15〜18名ほどのお客さんをコンスタントに呼び込むためにはそれなりの付加価値が無いと難しいでしょう。

立地がいい!コーヒーが美味しい!パンがとてもうまい!

その辺の素人が始めて上手くいく可能性などまず低いわけです。

飲食店を開業してからの生存率は、2年で50%、3年で30%、10年で10%と言われています

多くの方が比較的簡単に始められる業種でもありますが、それで生計を立てていくことの難しさを理解していないと必ず失敗しますね。

だから私は彼の夢を壊すようで悪いですが、反対をしました。

彼も「じゃ~もう少しきちんと考えてみる!」なんて言っていましたがどうなる事やら・・・です。

 

実は同じような相談をずいぶん多くの方にされてきました。

ある女性からは「のほほ~んとした雰囲気のこじんまりしたカフェを田舎でやりたい!」とか、「からあげが流行っているから始めてみたい!」とか、「家を改築してお店を開きたい」とか・・・

皆さん夢があるのは本当にいいことです。

出来れば応援してあげたいとも思います。

でもビジネスはおままごとではないんです。

きちんとした事業計画はもちろん、潤沢な資金力、そして何よりお客様を呼べる圧倒的な強みのある商品やサービス!

それらがきちんと考えられない方は正直失敗することが多いと思います。

自分が思い描いたように上手くいく人なんて本当は1~2%でしょう。

 

私も数年以内にお店を出すことを目標にしています。

事業計画書もお店のコンセプトもきちんと書面で残しています。

後は開店資金!

私が始めたいお店には1000万円ほどの開店資金がかかります。

もちろんメインバンクにも日々相談をしていますし、物件もリサーチを欠かしません。

でもそれは本業がしっかり機能しているから出来ることでしょう。

いまだに踏ん切りがつかず足踏みをしていますが、絶対に夢を叶えるつもりです。

その為にはまずは今の仕事でますます結果を残す必要があるんです。

 

商売はおままごとでは絶対に成立しません。

これだけは経営者として、元飲食店で働いた身として強く言いたいのです。

 

競馬と麻雀

パチンコ&パチスロと並行して競馬と麻雀にものめり込みました。

 

 

競馬は大学生になって初めて覚えました。

私が当時通学で使っていた電車はJR南武線

立川駅から登戸駅まで毎日のように乗っていたのですが、この電車が私を自動的に競馬の世界へ引きずり込んだのは間違いないでしょう。

南武線は通称「ギャンブル電車」なんて呼ばれていました。

立川には「立川競輪場」と「JRA場外馬券場」、多摩川をこえたあたりには「多摩川競艇」、川崎の方に行けば「川崎競輪」、そして・・・

あの有名な「東京競馬場」も府中本町駅にあるんです。

毎日電車に乗ると耳に赤鉛筆をひっかけて競馬新聞を読んでいるおじさま方が大勢いました。

特に土日ともなると乗車しているほとんどの人がギャンブルを楽しんでいる人ばかり!

そんなおじさま方を毎日目にしていたら興味が湧かないはずはありません。

 

18歳の時に初めて友人と「東京競馬場」に入りました。

土曜日の午後でした。

授業が終わりそのままふら~っと行ったのが全ての始まりでしょう。

初めてみる大きな競馬場の施設!

たくさんの人!

大歓声!

そして何より目の前をものすごい迫力で走り去る競走馬のカッコよさに心奪われました。

 

 

それからというもの、毎週かならず足を運んでいたと思います。

競馬はパチンコとは違い、レースの時間が決められています。

また、馬券は1口100円から購入できます。

無計画で江戸っ子気質な私には少ないお金で長時間遊べる健全な賭け事でした。

競馬新聞を毎週買い、レースを予想。

そのまま競馬場へ行き馬券を購入。

予想が当たるたびに興奮を覚えたものです。

 

慣れてくると馬券を購入する金額も多くなりました。

1口1000円~3000円ツッコむこともざらでしたね。

当然素人なので収支はマイナスだったと思います。

 

そんな私が一番得意だったのは「夏競馬」

毎年7月~8月にかけて開催されている若い競走馬たちのデビュー戦です。

とくに函館競馬場福島競馬場新潟競馬場、札幌競馬場で行われるレースは的中率が抜群に高かったです。

レース実績のあまりない新馬達のレースは予想が難しいと言われていますが、なぜか私にはピンとくるものがあったんですよね。

東京競馬場と同じ左回りの新潟競馬場でのレースは連戦連勝でした。

 

そんな私が競馬から足を洗うレースがありました。

1998年11月1日に東京競馬場で行われた第118回「天皇賞 秋」です。

この日、競馬場内の特等席で観戦するために、友人4人と深夜の2時から徹夜で並び開場を待ちました。

開場と同時に4人は猛ダッシュ

いつも座っている2階席の中央部を陣取ったんです。

この日の軍資金は15万円!

私は1レースから馬券を買っていましたが、思うように当たらずイライラしていました。

その横で友人達は地道に軍資金を増やしていったんです。

そしてメインの天皇賞秋が始まります。

この時の一番人気は「サイレンススズカ」!

私は先行逃げ切り型のいわゆる「逃げ馬」が昔から好きで、サイレンススズカは特に好きな馬でした。

圧倒的1番人気!

武豊騎乗!

そして左回りの東京競馬場で先行馬が1枠1番!

圧倒的勝利を誰もが確信している状況でした。

その時の単勝オッズはなんと1.2倍!

私は迷うことなく単勝に10万円を突っ込みました。

これで自動的に2万円の利益が出るのは間違いなかったからです。

 

レースが始まりました。

予想通りサイレンススズカはものすごいスピードで先頭を走りだします。

後続に8馬身差をつけさらに加速していきました。

しかし!

第3コーナーに差し掛かったあたりで急に失速します。

原因は左前脚の骨折でした。

結局サイレンススズカはレースを棄権し、結果的に予後不良と判断され安楽死となりました。

私の大勝負は2分ほどで終わったのです。

この時の何とも言えない気持ち・・・

悔しさと絶望感・・・

そしてサイレンススズカ安楽死・・・

あれだけ夢中になっていた競馬への熱意が一気に冷めた瞬間でした。

 

 

その日以降、私が東京競馬場に足を運ぶことはなくなりました。

もちろん有馬記念宝塚記念など大きなGIレースはその後も場外馬券場で購入することはありましたが、結局フェードアウトしていきましたね。

その代わり、弟がその後どっぷりと競馬にハマりました。

昔から非常に頭のいいやつで、馬の名前はもちろん、過去のレース結果、血統まで完璧に暗記していました。

あの時の弟の熱量は本当に凄かったと今でも感心します。

 

競馬以上にハマったのが麻雀でしょう。

 

 

大学1年生の時に友人から初めてルールとやり方を教わりました。

最初は全く分からなかったのですが、2ヶ月も経つとどんどん理解し勝てるようになってきます。

大学生=徹夜麻雀

イメージ通りの大学生でした。

授業やバイトが終わるとすぐに友人宅や雀荘に行き8時間以上打っていましたね。

そのうち、一人で雀荘に通うようにもなりました。

見ず知らずの人と打つ緊張感!

雀荘のおばちゃんと打つ楽しさ!

そして何より自分が上がった時の爽快感!

こんなゲームを発明した大昔の中国人は本当に凄いと思います。

一番記憶にあるのは、新宿でバイトをしていた時に出会ったちょっと怖い人たちと雀荘で打った時の事でしょう。

4時間ほど打ちましたがボロ負けしました。

それが悔しくて翌日もその翌日も私は手合わせをお願いに行きました。

そのうち、「お兄ちゃん度強あるな~ うちの会社で働かない」なんて声を掛けてもらえるまでに・・・

ちなみにその会社は完全に反社だったはずです。

そんなことばかりしていたら案の定単位を落としまくりまして・・・

学校を退学処分になりそうになり結局カミさんに救われたというお話です。

 

 

今では全くと言っていいほどギャンブルはやらなくなりました。

麻雀も競馬も20年近くゲームくらいしかやっていません。

ヤンチャな学生時代に一生分楽しんだんでしょう。

若いうちに出来ることはやっておいた方がいい!とあらためて思う今日この頃です。

 

最近末っ子が毎日携帯でゲームをしています。

しかも麻雀のゲーム!

麻雀のYouTubeまで見ていてずいぶん熱心です。

やはり私の子なんでしょうね。

いつか末っ子と雀荘に行って本格的にやってみたいと思います。

 

パチンコ依存症

16歳から22歳くらいまで明らかにパチンコ依存症でした。

 

 

きっかけは16歳の時に初めて入ったパチンコ屋さん。

当時、駅のホーム内にあるドムドムバーガーでアルバイトを始めていた私は、初めて自由に使えるお金が自分の労働により手に入ることを知り遊び始めました。

当時、バイトの休憩中に隣にあるキオスクの売店のおばちゃんと話すのが日課でしたね。

そのおばちゃんの趣味がパチンコ!

しばらくするとお互いの仕事終わりにパチンコ屋さんに連れて行ってもらいました。

初めてみるパチンコ台!

おばちゃんは初心者の私に「ハネモノ」の台を打つように言いました。

今でも覚えています!「フライングカーペット」という台です。

 

 

コミカルな見た目にアラビア感満載な効果音とメロディーで、当時のハネモノ好きを熱狂させた名機中の名機です。

大当り中に継続ピンチになるとVゾーンが左右に動くのも特徴的だったと思います。

訳もわからず両替した500円玉を入れて、打ち始めました。

おばちゃんも横の台に座り色々とアドバイスをしてくれました。

すると、1500円ほどであたりが出来ました。

受け皿には大量のパチンコ玉が出てきます。

脳を刺激する音楽とパチンコ玉が大量に出てくる音に興奮したものです。

結局その日は5000円ほどプラスになりました。

その後もおばちゃんとパチンコに行くようになり、どんどんハマっていきます。

慣れてくると一人で通うようにもなりました。

当時は年齢確認もされず、たばこを吸っていても怒られることはありませんでしたね。

 

パチンコを覚えてから数か月で完全に依存症になりました。

高校の友達とも学校帰りに毎日のように通うほどに!

結局バイト代の多くはパチンコにつぎ込まれました。

それでも当時は非常に運が良かったのか?

収支は毎月黒字でした。

多い時は月に20万以上勝つときもありましたね。

 

「フライングカーペット」を卒業してからは「ゴールデンバレリーナ」「フィーバークイーン」「黄門ちゃま」「モンスターハウス」「花満開」「ルパン三世」などにどっぷりハマります。

新装開店のお店があれば多少遠くても通い朝から並びました。

特に気に入っていたのは「フィーバークイーン」でしょう。

たぶん100万円以上使ったと思います。

 

 

一番印象に残っているのはJR登戸駅前のパチンコ屋さんで大勝ちした日のことです。

当時は大学2年生。

授業が午後からだったので開店と同時にお店の入り口にある台をねらい、打ち始めました。

この時の台は「黄門ちゃま」です。

1000円でいきなり大当たりしました。

確変をひき、次々と当たっていきます。

お昼くらいまで大当たりが止まらず、ドル箱が8箱ほど積み上げられました。

授業に行かなければいけないのですが、この状況で手を引くのはもったいない話です。

その日の授業は最終テストで受けなければ単位を落とします。

何度も天秤にかけましたが、パチンコを選びました。

当時付き合ったばかりのカミさんからテストに来ないので何度も電話が入ります。

私は無視して打ち続けました。

ご飯も食べずタバコとコーヒーだけで打ち続けること7時間!

私の椅子の周りには24箱ものドル箱が積まれていました。

しばらくすると店内アナウンスで「1番台!今年一番の出玉記録更新中!」と言われ、ますますヒートアップしてきます。

夕方になると友人達が集まりだしました。

授業を終えた後、パチンコ屋に毎日通ういつものメンバーです。

私の大当たりぶりを見て皆興奮しています。

友人は他の友人にも電話をして呼びつけます。

結局8人ほどの友人が集まりパチンコ屋はお祭り騒ぎでした。

結局夜の7時まで打ち続けてさすがに疲れてやめることに!

この日の出玉は79200発!

30万以上の大勝でした!

その後は友人と焼肉へ行き大盤振る舞い!

あの日のことは一生忘れないと思います。

結局単位は落としたのですが、そんなことを気にするような私ではありません。

翌日も授業をサボり同じお店、同じ台で勝負!

結局5万負けました・・・

 

 

パチンコに少しづづ飽きてくると今度はスロットにハマりました。

クランキーコンドル」「サンダーV」「花火」にどハマりします。

スロットはパチンコと違い運もありますが、当時の台は目押しの技術、リーチ目の見極めが大事でした。

毎週のようにパチンコ・パチスロの雑誌を買って研究し続けます。

スロットも2年ほど打ちまくりました。

 

 

 

当時の私のクズっぷりは半端ではなかったと思います。

カミさんとのデートをパチンコでドタキャン(そもそも待ち合わせの場所にもいかない)することも多かったですし、授業もサボれるだけサボりました。

今でも思い出しただけで恥ずかしくなるのは、神奈川の鷺沼に遠征した時の事でしょうか?

「フィーバークイーン」がものすごく出る!という友人の情報をもとに3人で朝から乗り込みました。

軍資金は3万円!

しかし、その日は全員が調子が悪くあっという間に所持金が底をつきました。

この時点ですでに、ご飯を食べるお金も電車賃も残っていません。

バイトの給料日前でしたので銀行にもほとんどお金は入っていませんでした。

そこで私達3人はある作戦を思いつきます。

「物乞い」です。

景品交換所で換金する人たちに片っ端から「お金を恵んでください!」と声を掛けたんです。

もちろんほとんど方から、無視か嫌味を言われてしまいます。

しかし、その日大勝ちしたであろうマダムと中年のおじさんは違いました。

自分たちの愚かさを包み隠さず話したらなんと1万円を恵んでくれたんです。

この時は全員で頭を深々と下げましたね。

これでご飯を食べたうえに家に帰れる!

ふつうはそう思うはずでしょう。

しかし、当時の私は違います。

その1万円でもう一度勝負に行きました。

友人も「おまえマジか?」と呆れております。

しかし、この時の執念というか気合というか?すさまじかったのでしょう。

まるでアニメのカイジのように私は頭に詰め込んである情報、これまでの経験値を最大限使い慎重に台を選びました。

選んだ台は「大工の源さん

今でも忘れない314番台です。

打ち始めてあっという間に7000円ほどがのまれて行きました。

残るは3000円!

一人1000円づつあれば電車で帰れます。

友人は「もうやめよ!」と言っていましたが、ここで引き下がるほど悔しいことはありません。

私はもう1000円入れました。

この時の私を軽蔑した目で見ていた友人の顔も一生忘れないでしょう。

その時です!

きました~ 大当たり!

しかも確変!

その後はジャンジャン大当たりが続きまして、結局19000発ほど出ました。

7万円以上のプラスです。

友人達と分けてその日は無事家に帰れました。

 

 

今思えば完全にパチンコ依存症だったのでしょう。

寝ても覚めてもパチンコの事ばかりの毎日!

カミさんにお金を借りたこともありました。

それでも収支は通算でパチンコに関してはちょっとマイナスくらいだったと思います。

(スロットは完全に赤字でしたが・・・)

 

結婚して子供が生まれるとパチンコなど行っている暇が無くなりました。

自由に使えるお金も、月のお小遣いの5000円だけ!

あれだけ夢中になったパチンコをすることは全くなくなったんです。

仕事や子育てに追われ興味も次第になくなっていきます。

結局再びパチンコ屋に行くのは12年後の事でした。

 

12年後に再び訪れたパチンコ屋さん。

仕事の関係で都内に行った際、2時間だけ時間があったので入ってみたんです。

しかし、私が知っている台はもうそこにはありません。

液晶も大きく綺麗になり、演出も派手になっていました。

ハンドルを10円玉で固定することも出来ないではありませんか?

まるで未来にタイムスリップしたような感覚に襲われたものです。

とりあえず「海物語」を打ちました。

すると大当たりがいきなり出たんです。

しかし!昔のような高揚感は全く感じませんでした。

むしろ、カミさんに内緒で(別に禁止されているわけではありませんが・・・)行ったことに罪悪感すら感じました。

なんだかこのまま昔の自分に戻ってしまうような気もして、結局1時間ほどでドル箱を4箱積んで帰りました。

 

久しぶりパチンコをしみてあらためて思ったことは「そこまで面白くない!」ということでした。

おそらく空白の12年の間にパチンコ以上の有意義な遊びを覚えたからでしょう。

また、お金に困って一世一代の大勝負をすることもなくなったからでしょう。

12年前に夢中になっていたそれとは全く違うものに思えましたね。

大人になったということなんでしょうか?

 

パチンコやスロットは本当に時間のある時、気が向いた時だけ今でもやります。

でも、打てる台が本当に少なくなったので、お店に入ってお目当ての台が無かったりするとすぐに帰ります。

あくまで時間つぶしでしかありませんね。

 

パチンコスロット以外にも私は数々のギャンブルにのめりこみました。

このお話はまたあらためて!