ありがとう ばあちゃん

7月6日(水)の早朝です。

ゴルフの準備を自宅でしていると母から電話がありました。

「ばあちゃんが死んだよ・・・」

 

 

私の母方の祖母は私が生まれた時まだ48歳でした。

本当に若くて元気いっぱいだったのを覚えています。

初孫でしたのでそれはそれは可愛がってもらいました。

もちろん私も祖母が大好きでしたし、色々な場所へ出かけたり色々なものを買ってもらったりもしました。

 

後から聞いた話ですが、母と祖母は非常に仲が悪かったそうです。

母は超田舎の貧しい家の長女として誕生しました。

田舎では長女は村で結婚し、すぐに男の為に働き子孫を残すのが一般的でした。

しかし、母は超天才児?と言えるほど頭がよかったんです。

ちなみに通知表は小学校から高校までオール5!

高校の時の全国模試では1番になるなど、村ではちょっとした神童でした。

そんな母は高校を出て大学へ進学することを希望します。

しかし!祖母はそれを良く思っていなかったみたいです。

結局親の反対を押し切り東京へ出てきました。

母は3~4つの大学を受験し全て合格していたそうです。

しかし、有名私立大学に入るためのお金がありませんでした。

母は仕方なく東京学芸大学へ入学します。

 

母が大学生になっても祖母たちは冷ややかな目で見ていたようで、仕送りなど一切もらえず、住み込みで働きながら学校に通っていました。

そんな母は大学卒業後に養護教諭になり、職場で出会った父と結婚をします。

数年後私が誕生して初めて祖母が東京へ来てくれるようになったんだとか・・・

 

祖母の私への愛情は非常に強かったんだと思います。

いつも気にかけてくれていましたし、私が大学時代に道を外れそうになった時には青森の田舎で一か月間何も言わずおいしいものだけを食べさせてくれました。

結局祖母は8人の孫に恵まれました。

親戚全員が集まって旅行をした時は本当に幸せそうでしたね。

 

そんな祖母が次に喜んだのがひ孫の誕生でした。

私が結婚し、長男が生まれると私と同じように本当に可愛がってくれました。

青森の実家に連れて行けないので、私が毎月のようにビデオテープを送っていましたが、そのテープが届くたびに祖母の家では毎回、親せきや友人を交えたプチ上映会が行われていたそうです。

 

しかし、13年前、祖母は祖父の病気と機に東京の私の実家に引き取られました。

まだまだ元気いっぱいだった為、完全介護というわけではありませんでしたが、結局母が面倒を見ることになったんです。

16年前に死んだ妹の10年近くに及ぶ闘病生活が終わったら、今度は自分の親の面倒を見てきた母。

本当に霊長類最強の母でしょう。

 

祖父が先に亡くなり祖母は一人寂しく実家で生活を続けていましたが、そんな矢先転機が訪れます。

祖母もそろそろ施設にお世話になる年頃、ものは試しに近所にある特別養護老人ホームに見学に行った時の事でした。

施設の方が案内をしながら急にこんなことを言ってくれたんです。

「実は今偶然1名受け入れ可能になったんです。いかかですか?」

 

特別養護老人ホームは有料老人ホームと違い入所希望者が多くいます。

基本的に自宅で面倒を見られなくなった方が対象ですが、施設側からすれば少しでも自分で生活できる能力がある方が入ってくれた方が職員の負担も減るものです。

祖母は要介護の認定は受けていたので、見学に行ったその日に入所が決まりました。

こんなラッキーなことはまずないと後から知りました。

7年前の出来事です。

 

その老人ホームで7年間祖母は平和に暮らしました。

ボケることもなく、病気をすることもなく、施設の方に特別迷惑をかけることなくただ静かにお迎えが来る日を待っていたようです。

コロナ前は何度も会いに行きました。

そのたびに色々な思い出話をしましたし、ひ孫の顔も見せていました。

しかし!コロナが流行ってからは完全に面会謝絶です。

かろうじてリモートの面会が出来ましたが、老人とのリモート面会はとても難しいんです。

デジタルになれていない祖母にとっては違和感しかなかったかもしれません。

会話も弾まず、受け答えもままならないようなリモート面会をするしかありませんでした。

コロナが収まったらまた会えるね!

そう言っていた矢先に祖母は旅立っていきました。

 

いつものように朝トイレを済まし、ベッドに横たわったまま静かに息を引き取ったそうです。

91歳でした。

 

翌日の木曜日に祖母に会いに行きました。

と言っても私の実家はもはやありません。

お葬式をあげたくても、親族は皆すでに旅立っていますし斎場を借りることも出来ません。

そこで祖母は「ご遺体のホテル」と呼ばれる安置所に運ばれました。

コンビニの跡地を少しだけ改装して作られているような場所に祖母はいました。

 

この施設には人はいません。

事前に受け取った書類に書いてある暗証番号を入力して中に入ります。

部屋に入ると殺風景な部屋に冷蔵庫が置いてありました。

室内はエアコンがガンガン効いており寒いくらいです。

冷蔵庫には祖母の名前を書いた紙がテープで簡易的に貼られています。

レバーを手前に引いて扉を開けると、そこには棺桶に入った状態の祖母が眠っていました。

冷凍保存されているような感じです。

久しぶりに見た祖母の顔は全く変わっていませんでした。

ふっくらとした顔で静かに眠っていたんです。

 

私は声を掛けようと思いましたが、なんだか空しさと悔しさが込み上げてきて何も言わずに祖母を見つめているだけでした。

母が「なにか話しかけたら?」と言ったのですが、うまい言葉が何一つ出てきませんでしたね。

心の中で「ばあちゃんありがとう」と唱えるのが精一杯でした。

 

祖母のお腹の上には綺麗な花が置いてありました。

その横に七夕の笹と短冊も一緒に置いてあったんです。

祖母が無くなる数日前、施設で行われた七夕の飾りつけ。

祖母は字が書けないので施設の方が短冊に願いを書いてくれていました。

 

「孫たちに会いたい・・・」

 

祖母の最後の願いだったんですね。

コロナさえなければ何度も面会に行けたのに!

コロナさえなければひ孫も見せに行けたのに!

コロナさえなければもっと触れ合えたのに!

悔しさが込み上げてきて、この時初めて涙が溢れそうになりました。

(ちなみに妹の葬式を最後に「死ぬまで人前で絶対に泣かない!」と決めています)

 

その3日後、孫7人に囲まれて祖母は火葬されました。

大病もなかったので、骨はとてもしっかりと残っていました。

これでお別れか~ あっけないな~ と思いましたが、私はすでに44歳!

この歳まで祖母が生きていることが珍しいことでしょう。

おかげで44年間という長い期間、祖母とはたくさんの思い出を作ることが出来ました。

初孫として恥ずかしくない人生をこれからも歩んでいきます。

あの世では親戚はもちろん、祖父、妹、そして先に亡くなった叔父もいることでしょう。

今は静かに、そして無事にあの世にたどり着くことを願うだけです。

 

9月には母の実家の整理と墓じまいもあります。

残された人間が後始末をするしかありません。

自分もつくづく歳を取ったんだな~あらためて思う出来事でした。

ばあちゃんありがとう!