YOSHIKI NIGHT

私が思春期からリスペクトしているアーティスト「YOSHIKI

中学生の時、当時はピアノを習っているというだけで「女か?おまえは!」と周りに揶揄われ、ピアノを習っていることをひた隠しにしていた思春期。

ある日の音楽の時間にたまたまピアノを弾いているところを見られ、すぐに演奏をやめた時「X弾けるのか?」と友人に聞かれ少しだけ披露したあの事件。

私への偏見は一瞬にして取り除かれ、リスペクトに代わったあの瞬間!

いまでも鮮明に覚えています。

YOSHIKIがいなかったらピアノなんて続けることもなかったと今でも思いますね。

YOSHIKIのピアノが上手いか下手か?

才能があるか?ないか?

変人か?天才か?

という下世話な議論はどうでもよくて、私にとってはいつまでも尊敬できる憧れの存在でしかありません。

 

そんなYOSHIKIが数年前から金にものを言わせ、ワインをプロデュースしているのをご存じでしょうか?

X-JAPANのファンであればほとんどの方がご存じだと思いますが、興味のない方からすればどうでもいい話かもしれません。

そんなYOSHIKIのワインをここ数年何度か購入しては一人で飲んでいます。

YOSHIKIワインには安価なもの(4500円程度のもの)から高価なもの(18000円~30000円)まで数種類あります。

もちろん私には安価なもので十分なので(そもそもワインの味なんてよくわかっていない人間です)いつもコストコで見つけては買う程度です。

 

先日、お世話になっているお金持ちの社長さんに色々とご馳走になってしまいました。

会員にならないと入れないような高級なお店に連れて行ってもらって、1本数万円もする高級なお酒を飲ませてもらったり、美味しいものもたくさんいただきました。

その社長さんとの会話の中で、「最近カリフォルニアワインにハマっている」とボソッと言ったのを私は聞き逃しませんでした。

後日、ご馳走になったお礼に私はカリフォルニアワインでも送ろうと思い色々調べましたが、ワインの知識が全く無い私には酒屋さんに行ってもちんぷんかんぷんです。

酒屋さんに色々と質問をしましたが、どれも「あの社長さんなら一度は口にしていそうだな」と思えるものばかり・・・

そんな時、ふと閃いたんです。

60過ぎの社長さんが絶対買わないであろうワインを俺は知っているではないか!と・・・

私はYOSHIKIワインの高級なものを探しました。

しかし、数量限定で販売されているだけになかなか手に入りません。

そこで私は横浜市内の酒屋さんに電話をかけまくりました。

11件ほど電話をしたと思います。

すると、1件だけお目当てのYOSIKIワインを在庫しているお店を見つけられたんです。

すぐに取り置きをしていただき数時間後購入しに行きました。

金額は23000円ほどでした。

後日郵送で送ったワインが社長さんの手元に届きました。

私の予想通り一度も口にしたことがないものだったようで安心しましたね。

 

そこから数か月・・・

私はその社長さんにプレゼントしたワインがどんな味なのか?非常に気になってしまいました。

寝ても覚めても「飲んでみたい!」という衝動にかられたんです。

そこで一大決心をしました。

なけなしの小遣いを叩いてYOSHIKIワイン(高級なほう)を買ったんです。

これも見つけるのに苦労しましたね。

 

 

ついに手にしたお目当てのワイン!

飲みたくても家で一人で飲むのもなんとなく気が引けるものです。

冷蔵庫の最前列で、いつでもコルクを抜かれる準備が出来ているボトルをながめる毎日・・・

小心者なので開ける決心がつかないまま数週間が経ってしまいました。

そんな時、偶然にもある方からLINEが届いたんです。

 

以前も書きましたが、スナックで出会った「X-JAPAN友達」からでした。

ぼちぼち飲みに行きましょうよ~

私はその時思いました。

どうせ飲むならX-JAPAN好きの人とライブDVDでも観ながら飲めたら素敵だな~と

 

すぐに行きつけのスナックのママに連絡をしました。

「ワインを持ち込んでスナックでDVDを観ながら飲みたい!」と・・・

するとママからはあっさり「全然OK!いつにする?」なんて返信が来まして、あっという間に日取りが決まったんです。

ちなみにママもX-JAPANが好きなので話が早かったですね。

こんなわがままを聞いてくれるのも地元ならではなのかもしれません。

 

迎えた当日!

仕事を急ピッチで片付けスナックで友人と待ち合わせをしました。

午後8時いよいよ「YOSHIKI NIGHT」スタートです。

 

 

ママはこの日、私と友人の為にワイングラスはもちろんですが、おつまみも用意してくれていました。

X-JAPANのLAST LIVEのDVDもかけてくれていて準備は万端です。

しかも!この日は私と友人の為に2時間だけ他のお客さんを入れないでくれる配慮まで・・・

本当にありがたい話です。

 

 

早速ワインを開けて友人とママと乾杯をしました。

気になるお味は・・・

本当に美味しかったです。

ワインなんてどれも同じでしょう!と思っていた私のいい加減な考えはこの瞬間に吹き飛びました。

ママはワインはあまり飲まないようですが、この日は「これおいしい」と言って飲んでくれました。

気が付いたら40分ほどでボトルは空っぽに・・・

ライブDVDを観ながら本当に至福の時間でしたね。

 

 

ワインが飲み終わればいつものどんちゃん騒ぎです。

今度はいつもの焼酎割を片手に、飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎ!

ママも大はしゃぎです。

そのうち常連のお客様や飛び込みのお客様が入ってきましたが、あまりの盛り上がりに「今日はどうした」と皆驚いておりました。

 

こうして「YOSHIKI NIGHT」は無事終了となりまして・・・

友人とスナックから家まで歩いて帰りました。

結局家に帰ったのは2時過ぎでしたかね?

こんなくだらない形でしか日頃のストレスを発散できないオッサン2人ですが、それでも発散できる時間と場所があるだけ幸せです。

赤の他人がたった一日で何十年も一緒にいるような友人になり、高級ワインを飲みながら共通の趣味で盛り上がれる!

私にはこんな楽しみ方が一番なのかもしれませんね。

 

ちなみに次の日は朝8時から仕事があったのですが、よほど飲んだのか?完全に寝坊をしました。

私としたことが仕事を1本キャンセルする羽目に・・・

9時には何とか仕事を開始できましたがもう若くありませんね?

ちなみキャンセルした仕事は翌日の早朝にきちんとやり直しましたのでご安心を!

 

次回はYOSHIKIシャンパンでやろうと思います。

 

少年野球チームの親子レクリエーション

昨年から少年野球チームの代表を引き受けております。

末っ子が小学生の時にお世話になったチームです。

前代表が不祥事で更迭され、友人である私が後を引き受けたのはいいのですが、わからない事ばかり。

代表とは名ばかりでほとんど監督・コーチに運営をお願いしております。

それでも土日の活動日には仕事の合間を縫ってなるべく顔を出すようにしているのですが、仕事が忙しくてなかなか時間が作れていないのも事実です。

そんな私がチームの為に何かできないか?

色々考えて立てた企画が「親子レクリエーション」でした。

 

 

少年野球は現在瀕死の状態です。

野球人口の減少とともに子供の確保も難しくなっています。

また、昨今叫ばれている「親へのお手伝いの強制」も大きな問題です。

一昔前は土曜日、日曜日はみんなお休みでした。

毎週どこかへ出かける訳にも行きませんから、子供の習い事に親も時間を割くことが出来ていたんだと思います。

しかし、最近は仕事も不定休な方が多くなりました。

また、家族の時間はもちろん、プライベートを何かに邪魔されたくない!と考える方が増えているのも事実です。

また、少年野球を含めたスポーツの習い事は基本的にお金がかかります。

部費、道具代、遠征費、スパイク、シャツ・・・

今ではだいぶ安くはなりましたが、それでもお金がかからないということは決してありません。

少年野球は基本的にボランティアで監督やコーチが運営をしています。

活動費は基本的に部費からまかないます。

しかし、送迎代、昼食代、その他の経費は自腹の持ち出しがほとんどでしょう。

1円にもならない仕事を自分のプライベートを犠牲にしてまでやりたい!と思う大人達も減少傾向にあるわけです。

私のチームも例外ではありません。

10年以上前は20~30人以上の子供達がいました。

コーチもお父さん方や地域の野球好きのオッサンが一生懸命手伝ってくれていてそれはそれは賑やかでした。

しかし、ここ数年は子供も大人もチームをどんどん離れていきます。

これはこれで仕方がないことですがチーム存続の危機を毎年迎えているのが現状です。

現在、私のチームには子供が8人、大人が5人しかおりません。

もちろん試合は出来ないですし、まともな練習もさせてあげられない状態です。

それでも今年の春に子供達は背番号付きのユニフォームをもらっています。

主将・副主将もきちんとおります。

なのに!そのユニフォームに袖が通せないまま気づけば11月になってしまいました。

 

末っ子の時は毎週のように試合が行われ、ユニフォームを着て生き生きと野球をしていたんです。

しかし、今は全くそれが出来ません。

保護者もそのことを理解しているので文句は出ませんが、きっと寂しい思いをしていることでしょう。

そこで今回の企画を立てることにしました。

 

 

場所は私の草野球チームのホームグラウンド!

時間は19時~21時!

ナイターなら大人も仕事終わりに参加が可能です。

そこで子供達にはユニフォームをきちんと着せて、形だけでも野球をやらせてあげたかったんです。

 

 

迎えた当日。

コロナで2名が残念ながら欠席でしたが、子供と大人、そしてOBが20名ほど集まり野球を楽しむ事が出来ました。

末っ子も当時一緒に野球をしていた同級生を連れてきてくれて非常に楽しそうでした。

 

 

子供たちにとっては今年初めて袖を通した公式ユニフォーム!

そして、生まれて初めてのナイター野球!

さらに初めて体験する大人のグランドの広さ!

みな、グラウンドに入るなり大興奮でしたね。

 

 

また、この日は私からのサプライズでカメラマンを手配しました。

昔、スーパー銭湯でバイトをしていた時に仲良くなった同い年の友人です。

今でも私のお店をよく利用してくれています。

実は友人は趣味でカメラをやっていまして、声を掛けたら快く引き受けてくれました。

 

 

いつもは風景写真ばかり取っているようですが、この日はナイターで動く選手の撮影!

非常に難しかったみたいですね。

 

 

末っ子がプレーしていた時にはマネージャーさんがたくさんの写真を毎回撮ってくれていて、そのたびにLINEで送られてきました。

だから末っ子の野球姿の写真はたくさん残っているんです。

しかし、今いる子供達の写真はお母さん方が携帯で遠くからパシャパシャ撮っただけのものばかり・・・

本格的な写真をどうしてもプレゼントしてあげたい!という思いもありました。

結果的に友人は200枚以上の素敵な写真を撮ってくれたんです。

本当に感謝です!

後日写真を全員にLINEで流しましたが、皆本当に喜んでくれました。

良かったです本当に。

 

 

現在6年生が2名。

来年4月からは6人になってしまいます。

もちろん色々な子供たちに声を掛けていますが、なかなか集まりそうにもありません。

それでも最後の一人になるまで責任を放棄するわけにもいかないわけです。

実際に私の知る限り、この10年で馴染みのある5チームが長い歴史に幕を閉じています。

きっと全国のチームで同じようなことがたくさん起きていることでしょう。

我がチームの存続の危機はおそらく来年も続くはずです。

でも今はただ出来ることを精一杯やっていこうと思います。

きっといいことがあると信じて・・・

 

 

壁超えた

昔から人前で何かをすることが本当に苦手でした。

学生時代に授業中に読まされる「音読」

体育の授業でみんなの前で行われる「スポーツテスト」

ピアノの「発表会」

剣道の「試合」

そして「運動会」

どうせ誰も見ていないだろう!聞いていないだろう!と思っていても妙に緊張してしまって上手に出来たためしがありません。

そんな自分が一番苦手だったのは「人前で歌うカラオケ」でした。

 

仕事の延長線上でスナックや飲み屋さんへ通うようになりましたが、そこで歌わされるカラオケが本当に苦手でした。

上手に歌おうと意識すればするほど気持ちよくなんか歌えません。

酔いも覚めてしまうほどでした。

でもこのままでいけない!何とか克服したい!

そこで私が通いだしたのがボーカルレッスンでした。

 

そのスクールで素晴らしい先生と出会い、私は歌というものをあらためて勉強しました。

発声の基礎はもちろん、呼吸法、姿勢、ウォーミングアップなどなど・・・

おかげでなんとなく歌は上達しました。

10ヶ月あまりで忙しすぎて退会をしましたが、本当にいい勉強になりました。

 

コロナが落ち着き、スナックが営業を再開し始めたのを機に、特訓したカラオケを披露する機会が増えていきました。

多少自信を持って歌えるようになったからなのか?以前よりも緊張せずにしっかりと気持ちよく歌えるようになった自分に驚いていたりもします。

 

最近行きつけのスナックではママが「誰が一番うまいか?得点を競い合おう!」とカラオケの採点機能を使った遊びが連日連夜行われています。

きっかけは私の「自分の歌って何点出るんだろう」という一言から始まったのですが、今では他のお客さんを巻き込んで盛り上がっております。

 

このお店での最高得点は私が出した94.609でした。

ママは相当悔しかったみたいで一人残って猛特訓をしていたみたいですね(笑)

「店主がお客さんよりも得点が低いなんて許せない!」なんてことも言っていました。

一ヶ月後、ママは96点台を出し私の記録をサラッと塗り替えてきました。

もちろん悔しさなんてものはありませんが、せっかくボーカルレッスンを受けたんだから95点以上は出したいものです。

私はそれからというもの何度も挑戦を続けました。

 

 

得意な曲を何度も丁寧に歌って挑戦してみましたが、やはり95点の壁はなかなか超えられません。

他のお客さんからは「大したもんだよ~」と言われましたが、自分の中で95点の壁が大きく立ちはだかっていたんです。

 

先日、仕事で大きなミスをしてしまいお客さんに迷惑をかけてしまいました。

何年もこの仕事を続けてきて、それなりの経験を積んだ自分にはありえないミスでした。

お客さんから怒られたり文句を言われたわけではなかったのですが、自分の中で本当に許せなくて落ち込んでいたんです。

その夜、気分転換にいつものスナックへ一人で行きました。

その日は常連のお客様がたくさんいまして私がお店に入るなり「お!カラオケ王が来たぞ!」なんて冗談を言われます。

私はその夜は一人静かに飲みたかったのですが、ママがグラスの横にそっとマイクを置きました。

「甘やかさないからね~ 95点出すまで帰えさないから!」なんて言われてしまいます。

私がデンモクを手にしようとしたらママが「もう入れたから!私の好きな曲でお願いね!」なんて言ってきます。

いよいよ私の順番になりました。

この時「どうせ95点は無理だし、気楽に歌うか?」と少し投げやりな気持ちで歌い始めたんです。

歌っている時も「いつもと同じだな」とは思っていたんです。

それでも途中から「今日はよく声が出るな~」とも思いました。

歌い終わると常連のお客さんが「これは出たんじゃない?」と煽ってくるので余計に恥ずかしくもなりました。

いよいよ採点が出ました!

すると!!

「96.126」

なんと!95点の壁を大きく超えることが出来たんです。

店内はもうお祭り騒ぎ!

全員がハイタッチで私の周りに集まりました。

 

 

ボーカルレッスンに通い始めてから私は毎日5~10曲を歌うという課題を自分に課しました。

家では歌えないので夜な夜な車を走らせ車内で練習を積み重ねてきたんです。

それから1年半・・・

その努力が報われた瞬間でしたね。

なんだか清々しい気持ちにもなりました。

人前で歌うのが苦手だった私が今ではカラオケの高得点を目指せるよになるなんて・・・

人生どこで何が起こるかわからないものです。

 

閉店間際、スナックの創業者でもある大ママにママが冗談で「お母さんもチャレンジしてみたら~」と言い出しました。

大ママは「冗談じゃないよ!勘弁して!」なんて言っていましたが、結局他のお客さんにあおられ大ママのチャレンジが始まったんです。

曲は高橋真梨子の「for you」

70歳を過ぎた大ベテランの歌唱が始まりました。

何度かその歌声を聞いてきましたが本当に上手です。

私は歌に耳を傾けていましたが、音程・ビブラート・表現力、どれをとってもベテランの貫禄を感じました。

いよいよ採点の時です!

出た得点は「97.394」!!!

お店の新記録をサラッと塗り替えられてしまいました。

初めてのチャレンジでこの高得点!

私とママはもう開いた口がふさがりませんでしたね。

 

 

ここまできたら大ママの記録を超えるしかありません。

ママと私のチャレンジはこれからも続きます。

 

2年越しの再会イベント

末っ子が中学生の時のお話は以前もしました。

少年野球でメキメキと実力を付け、野球一筋で生きてく決意をした末っ子は中学生では強豪のクラブチームへ入る予定でした。

体験会にも参加をし、私たち親も「いよいよ末っ子の野球人生が始まるのかな?」なんて漠然と考えていたんです。

長女は新体操をずっと続けていた影響で中学ではクラブチーム、高校へは新体操の強豪校へ特待生でサラッと入学しました。

学費が免除だったので非常に助かりましたが、親の負担は半端なかったですね。

特にカミさんは中学・高校の3年間は娘に付きっきりでした。

末っ子も同じような生活が始まるのか?と思っていた矢先の出来事です。

 

 

中学へ入り最初の2週間は本人に考える時間が与えられました。

「どうせクラブチームへ行くんだろ」と安易に考えていたのですが、末っ子が出した結論は「中学の野球部で野球を続ける」というものでした。

理由は「ガチは嫌だ!」「坊主は無理!」という単純なものでしたが、カミさんは妙にホッとしていたのを覚えていますね。

その末っ子が下した決断の裏には同級生の進路が大きく影響していました。

末っ子の同級生には野球が上手な子が多く、その多くがクラブチームへ進み本格的な野球を始める予定だったんです。

しかし、幼い彼らに自ら厳しい環境に身をおくという決断は難しかったのでしょう。

同級生の多くがクラブチームへは行かず、中学の野球部へ進んだわけです。

 

 

上手な子たちが一斉に入った中学の野球部はそれはそれは強いはずです。

経験者ばかりですし上級生よりも速い球を投げる子、すごいバッティングをする子がゴロゴロいたわけですから・・・

そんなタイミングでこれまた偶然に新任の先生が赴任してきました。

S先生です。

非常に若い先生でゴリゴリの野球人でした。

その先生との出会いがのちに大きな出来事へと発展していきます。

 

最初の野球部の保護者説明会でS先生がいきなり保護者にかまします!

「いいですか?野球部を私は強くしたいです!保護者の方々の協力は不可欠です!遠征が多くなるのでお金もたくさんかかります!子供達をとにかく厳しく指導しますので覚悟しておいてください!」

中学の野球部なんてゆる~いものだろうと思っていた保護者達は皆驚きました。

それでも子供達が決めたことです。

我々保護者の中にも多少の不安がありましたが、S先生に全てをお任せすることで入部をさせました。

 

S先生は教員になってまだ6~7年でした。

しかし、以前赴任していた学校で野球部を強化し非常にいい成績をおさめていたようです。ちなみに今でもその学校は公立中学では強豪校と呼ばれています。

そのS先生のもとで始動した中学野球部の生活。

毎日泥だらけで、そして疲れた様子で帰ってくるようになりました。

それでも野球に関しては実力のある子達ばかりです。

きつい練習にも耐え、数か月でみるみる上達していきました。

ここで焦ったのは2年生でしょう。

一個上の先輩方の中には中学から野球を始めた子もいましたし、もともと少年野球でも注目されるような子達ではありませんでした。

そんな先輩たちの下にバケモノのような後輩がぞろぞろ入ってきたわけです。

先輩たちは目の色を変え後輩に負けないよう必死に努力をしたそうです。

そんなチームは当然のことながらどんどん強くなります。

練習試合を行えば連戦連勝!

大会に出てもそこそこの順位までいくチームになりました。

市内からも「あの中学校ヤバくね?」なんて声が聞こえるほどに成長したんです。

 

末っ子が2年生になった時、私から見れば史上最強のチームが完成していました。

中学野球の最高峰「全国中学校軟式野球大会」も夢ではなかったんです。

もはや区内には敵なし、市内でも上位に必ず食い込めるチームだったんです。

 

生徒とS先生との師弟関係も完璧でした。

お互いの信頼関係がきちんとしていて、子供達もS先生に懐いています。

もっと凄かったのは月に1回は開催されていたS先生と保護者の飲み会でしょう。

先生は生徒の面倒だけでなく、保護者他のコミュニケーションも積極的に取ってくれまして、本当にありがたかったです。

個人的にS先生を私の行きつけのスナックへ連れて行って朝まで飲んだこともありました。

結局先輩の代は惜しいところで負けてしまい、夢の続きは末っ子の代に託されました。

来年こそは!絶対に全国へ行く!

そんな思いを胸に末っ子は3年生になったんです。

 

末っ子の代はさらに強かったですね。

向かうところ敵なし!

練習試合では毎回のコールド勝ちでした。

 

そんな素晴らしい野球部の活躍をあの忌々しいウィルスが襲います。

新型コロナウィルスです。

これから!ってタイミングで大きな大会は中止を余儀なくされました。

試合もなかなか組めず、選手たちの活躍の場はどんどん失われて行きます。

ローカルな大会は何とか行われましたが、大きな大会が開かれたのは春先だけでした。

S先生と選手たちの悔しい気持ちは計り知れなかったことでしょう。

結局最後の大会は区内の形だけのものとなりその活動を終えたんです。

 

卒業間近の2月、野球部の中だけで紅白戦が行われました。

保護者が審判を努めたり、S先生もプレーしたりの和気あいあいとした最後の活動でした。

その締めのあいさつでS先生はこう言いました。

「君たちと過ごした時間は本当に楽しかった!毎日がワクワクの連続だった!そしてこのチームなら全国を本当に狙えると思っていた!いまは本当に悔しいし言葉も出ない!もっと君たちと野球をしたい!高校生になっても野球を続けてください。そしてまた一緒にプレーしましょう!」

保護者も生徒も思わず目頭が熱くなる瞬間でした。

 

末っ子は高校へ進学しても野球を続ける選択をしました。

公立高校のけっして強くはない野球部ですが、日々汗を流しすっかり高校球児です。

しかし!あの時の最強チームのメンバーの多くは野球を続けませんでした。

希望の学校に入っれなかったり、野球への情熱が失われた子も多かったようです。

 

実はS先生とはLINEで繋がっていてたまに連絡を取り合っていました。

子供達の近況を報告したり、自分が草野球チームを作った話もしていたんです。

そこで私は考えたんです。

コロナが落ち着いたらもう一度、S先生と子供達をグラウンドへ集めて同窓会をやらせてあげようと・・・

 

 

その時がいよいよやってきました。

自分が野球を始めたことでグラウンドの確保や人数調整の経験やスキルは身に付きました。

いよいよ企画を実行に移す時です。

私は末っ子やカミさんの協力を得ながら、関係各所に連絡をお願いしました。

現在はみな高校生。

それぞれ別々の学生生活を送っていてそう簡単には連絡を取ることが難しかったです。

でも皆近所に住んでいるため保護者同士の連絡は容易に取ることが出来ました。

2年間ほとんど連絡を取っていなかった私からのイベントの提案に皆賛同してくれるのか?

「何をいまさら?」と思われてしまうではないか?

不安を抱えながら当日を迎えました。

 

この日S先生は中学校の先生方に声を掛けてくださり、先生だけでチームを編成してくれました。

一方子供達はと言いますと・・・

なんと先輩方も含め17名以上の野球部OBが集まってくれたんです。

保護者の方々もたくさん集まってくれて集合時間には40名以上の方々がグランドに集まりました。

今回の趣旨を説明しいざプレイボールです。

 

 

子供達の大半は中学校以来野球をしていない子ばかり!

しかし、当時主将だった先輩が「集合!」と言うと全員がきちんと纏まって行動します。

主将がメンバーを決め試合は思った以上にスムーズに始まりました。

 

 

みな久しぶりの野球でしたが、実力者ばかりの最強チームと呼ばれただけのことはあります。

2年のブランクを感じさせないほどレベルの高い試合が行われました。

バックネット裏からは保護者が声援や冗談交じりのヤジを飛ばします。

まるで2年前に戻ったかのような和気あいあいとした時間はあっという間に過ぎてしまいます。

結果、白熱した試合は先生チームの勝利で幕を閉じました。

 

 

試合後、球場のエントランスの前で最後のミーティングが行われました。

先生が子供たちにあの時と同じように声を掛けます。

S先生の熱いメッセージを子供達もあの頃と同じように真剣に聞いていました。

何年経っても師弟関係はきちんと成立しているものです。

それだけS先生を中心とした野球部がまとまっていた証拠なのでしょう。

子供達の表情もあの頃と全く同じで、保護者もみな嬉しそうにながめていました。

 

 

こうして私が企画した2年越しの同窓会イベントは大成功ののちに終了しました。

残念ながら高校になじめず、学校をやめてしまった子もいます。

親も子も悩みながら生活している家庭もあります。

でもこうしてきちんと参加してくれたことに本当に感謝しかありません。

保護者や先生方からもたくさんのお礼をいただきましたが、お礼を言いたいのは私の方です。

こんな楽しそうに野球をする末っ子はもちろん、懐かしそうに試合をながめる保護者の姿を見ることが出来たんですから・・・

 

 

自分で野球チームを作り多くの人達と関わりを積極的に持ってきたこの2年間。

こうした形で恩返しできたことは私の大きな自信にもなりました。

子供達からも「またぜひやりたいです!」とうれしい言葉をいただいたので、今後は年に1度は開催したいですね。

本当に素晴らしい一日でした。

 

 

ワンコイン野球 紅白戦 薬大スタジアム

500円払えば活動日に誰でも立派な球場で野球を楽しめる!

チーム名も名簿もユニフォームもない野球好きの集まり!

年齢・性別・経験の有無は一切問わない!

それが私が2年前に作ったワンコイン野球です。

 

新型コロナウィルスの影響で仕事が激減!

さらに大好きなプロ野球も無観客で見に行けない!

何とも言えない気持ちで過ごしている時に、取引先の方から「じゃ~社長が野球をやってみませんか?」という一言で始まったのが2年前の5月でした。

最初は7人でグラウンドを貸し切り静かに始めた活動が、今では本当に多くの方々に参加をいただき、現時点で活動に参加していただいた方は50人を超えました。

レギュラーメンバーは25人程度おります。

会社の従業員も強制ではなく、自らの意思で経験のない野球を一生懸命楽しもうとしてくれていて協力的です。

自分はと言いますと・・・

このワンコイン野球を結成してからというものすっかり野球人です。

キャッチボールもまともに出来なかった40過ぎのオッサンが、今では週に2~3回は草野球を一生懸命楽しんでいるから不思議なものです。

 

そんなワンコイン野球2年目もいよいよシーズン終了の時期となりました。

野球は基本的に3月~11月くらいまでしか楽しめません。

寒い時期には向いていないスポーツなんですよね。

その為、いつもお世話になっているグラウンドも12月~2月までは基本的にクローズとなります。

また、私の仕事は10月の後半から12月までが「超繁忙期」です。

草野球などやっている時間はないんです。

ある意味野球をやるには都合のいい仕事なのかもしれませんね。

 

ワンコイン野球2年目のシーズンの最後を締めくくるべく、私は派手なイベントを企画しました。

「俣野公園 薬大スタジアム 紅白戦」です。

 

 

いつも活動しているグラウンドには電光掲示板も観客席もありません。

グラウンド自体は立派ですが、どうせやるなら公式戦などが行われる本格的な球場でやりたい!と常々思っていたんです。

 

 

薬大スタジアムは高校野球の予選会はもちろん、横浜市の名立たる大会の会場になっている伝統のある立派な球場です。

そんな場所でただの素人オッサン集団が野球をやったらどうなるのか?

興味津々でまずはグラウンドの確保を始めました。

 

毎月10日ごろにインターネットで先着順でグランドを取ることが出来ます。

私は仕事そっちのけでパソコンの前でマウスをクリックし続けました。

そして見事、薬大スタジアムを4時間借りることが出来たんです。

 

すぐにメンバーに連絡をし紅白戦の参加メンバーを募りました。

10月10日(祝日) 17時~21時

「俣野公園 薬大スタジアム 紅白戦」

誰でも参加できる完全なお遊び試合です!

 

皆さん仕事やプライベートのスケジュールがありますので直前までなかなか参加メンバーが決まりませんでした。

しかし!ワンコイン野球は気軽に参加できるのが売りです。

直前まで私は連絡を待つことにしました。

10月7日の時点で参加を申し出てくれた方はたった12人・・・

このままでは開催自体が危うい?とも思いましたが皆さんいつも直前になって「せっかくだから行こうかな~」なんて思う方ばかりです。

そして前日の9日、最終的に30名のメンバーが参加を表明してくれました。

これで賑やかに開催できそうです。

 

問題は私の仕事です。

祝日の営業時間は18時までとなっています。

17時から始めようというのに間に合うはずもありません。

そこで社長特権!

この日だけは営業時間を1時間早め17時までとしました。

表向きは「社内行事の為」となっております。

きちんと事前にアナウンスしておいたので大丈夫ですよ!

 

迎えた当日!

朝からそれほど会社の方は忙しくありません。

来店も少なく「17時前には閉店しちゃおうかな」なんて思うくらいでした。

しかし!!

16時過ぎにまさかの来店ラッシュ!

スタッフ全員でスピーディーにお客様を捌きました。

そして何とか17時に閉店することができ、急いで現地へ向かいます。

 

現地では先発隊が18時プレイボールに向けて準備を着々と進めてくれていました。

後は試合開始を待つばかりでしょう!

 

 

ここでトラブルが発生!

私は末っ子と末っ子の友達を車で乗せていきました。

その時、急いで準備をしていたせいか?グローブとスパイクを会社に置いて来てしまったんです。

気が付いたのは球場に着いた時でした。

この時すでに17時45分!

私は「先に試合を始めていてください!」とメンバーに伝え急いで荷物を取りに戻りました。

30分以上の遅刻でした・・・

 

今回の紅白戦では初めての試みとして「電光掲示板」&「場内アナウンス」を使用しました。

 

 

我がチームの活動にいつも協力してくれる女性2名にこの大役を任せ、本格的に試合が行われました。

 

 

掲示板やアナウンスはバックネット裏の部屋から操作します。

 

 

こんな機械をなれない手つきで一生懸命操作し、この日初参加で名前と顔が全く分からないなかでも一生懸命アナウンスをしてくれました。

 

 

試合の方も白熱した展開で今までで一番盛り上がる試合内容だったと思います。

全員が打席・守備機会があり我がチーム初のホームランも飛び出しました!

3時間できたので9回まで行えました。

これも初めての事でした。

 

 

電光掲示板に名前が載り「1番バッター○○~」なんてコールされるだけで立派な野球選手にでもなった気分になります。

幼いころからの憧れがやっと実現できました~

 

 

最後はみんなで試合撮影です!

 

 

結成した時は7人でこじんまりしたグラウンドで始まった活動が2年でこれだけの人を巻き込んで楽しく活動できるまでに成長しました。

しかも本格的なグラウンドで!

本当に感無量です。

活動に参加してくれる方々にも心からお礼を言いたいですね。

みんな本当にありがとう!

来年も色々な楽しいイベントを企画していこうと思っています。

 

 

末っ子とツーショットで写真も撮れました~

こんな事でもないと二人で写真を撮る機会などありませんからありがたいお話です。

 

震災復興巡り

青森の脇野沢を午前10時に出発して横浜へ帰ります。

ここからまた長いドライブか~と思うと憂鬱でしたが、弟と交代で運転でしたので気持ちは楽でした。

 

まずは車を1時間ほど走らせむつ市の中心街でお土産を購入します。

脇野沢にはそれらしいお土産など売っていないので・・・

 

お土産を一通り買い終えた時、弟とこんな話になりました。

「どうせ帰りは時間に余裕があるんだから東北の海沿いを走って帰ろうか?」

 

東日本大震災から10年以上が過ぎ、東北は目覚ましい復興を遂げています。

その代表的な道路が「三陸自動車道」でしょうか?

震災前から工事は始まっていましたが、この三陸自動車道が復興のスピードを早めたことは言うまでもないでしょう。

八戸から三陸自動車道に乗りひたすら南下していきました。

 

この三陸自動車道は嬉しいことに「無料」なんです。

こんなにありがたいことはありません!!

しかし!この道路!

追い越し車線がほとんどない片側1車線の区間がほとんどなんです。

 

BMW5シリーズで快調に飛ばして帰ろうと思ったのですが、地元のお年寄りが運転する車に阻まれ、思うようにスピードが出せません。

結局予定していたよりも大幅に時間がかかりました。

 

午後1時過ぎにはお腹が減ったので岩手県の久慈で昼食を取ることにしました。

 

 

お目当ては津軽煮干しラーメン!

 

 

ご当地グルメです。

「サムライブギー」というちょっとファンキーなお店で美味しくいただきました。

 

 

昼食後は岩手県陸前高田を目指しました。

東日本大震災で甚大な被害があった場所ですね。

ところが途中で弟が「大船渡高校に寄り道したい!」なんて言うので少し時間をロスしましたけど・・・

 

 

今年完全試合を達成した佐々木朗希投手の母校です。

 

なんだかんだで陸前高田に到着したのは16時過ぎでした。

 

 

道の駅に震災の復興記念館があります。

 

 

その先にはあの有名な「奇跡の一本松」が!

 

 

震災遺構として被害のあった建物も残っています。

 

 

同じような津波に襲われた時に被害を食い止めるために「スーパー堤防」も建設されていたのですが・・・結構歩かされましたね。(敷地内を30分くらい歩き回りました)

 

 

続いて宮城県気仙沼石巻なども見て帰ろうと思ったのですが、すっかり日が暮れてしまい断念!

 

このままチンタラ走っていたら到着は明け方になってしまいそうです。

ここからは東北自動車道へ戻り、かっ飛ばして帰りました。

 

途中のサービスエリアで食べたご飯がイマイチで少し残念・・・

 

 

午後11時、埼玉の弟の家に無事に到着です。

荷物をおろし、私は横浜へ1時間ほどかけて無事に帰ることが出来ました。

 

 

結局、今回の総走行距離は2580キロ!

よく走りましたね。

免許を取って24年!こんなに短期間で長距離を自分の運転で走ったのは初めてかもしれません。

疲れましたが妙な達成感がありました。

やっぱり車がいいと運転も楽ですね。

来年はもっといい車を借りて行こうと思います。

 

脇野沢

母が生まれ育った脇野沢は本当にド田舎です。

幼少期この地で生まれた母は脇野沢で人生の大半を過ごしたわけではありません。

祖父の仕事の関係で小学校高学年から高校までは北海道の室蘭で暮らしていました。

祖父母も実は私が5歳くらいまでは室蘭にいたんです。

だから母は道産子だったりもします。

高校まで室蘭で過ごしそのまま上京!

脇野沢にいたのは数年と聞いています。

 

 

室蘭で生活していた祖父母は祖父の退職を機に再び脇野沢へ戻ってくることになりました。

祖父はそのタイミングで立派な家を建てたんです!

 

 

祖父の家は「一番地」と呼ばれています。

村の玄関口に家がある事からそう呼ばれているようです。

郵便物も「脇野沢一番地」とだけ書けばきちんとつくほど村では有名な家でもあります。

毎年帰省の際には親戚一同がこの家に集まり賑やかな時間を過ごしていました。

 

 

そんな家も10年以上誰も住んでいません。

まだまだ住める状況ですが今回の脇野沢滞在では村で唯一の旅館を利用しました。

 

 

25年ぶりに村について私が最初にしたことは「思い出巡り」でした。

 

 

脇野沢のメインストリート!

 

 

今は子供がいないので閉校しているんだそうです。

 

 

その昔4軒あった村のスーパーも今ではここだけしか残っていません。

 

 

幼児がそもそもいるのでしょうか?

 

 

村に唯一あった信用金庫も2年前に無くなりました。

預金をおろすにはずいぶん離れた場所へ車で行かないといけないようです。

 

 

村の守り神である「権現様」

夏になると盛大にお祭りが行われていて、この敷地に数百人の人が集まっていたものです。

 

 

今は誰も住んでいない親戚の家々

 

 

こんな廃墟もたくさんあります。

 

 

昔よく釣りをした岸壁

 

 

バスも一日数本です。

完全な赤字路線でしょうね。

 

脇野沢唯一の観光地「道の駅」

 

 

この地は「北限のサル」が生息することでも有名です。

野生の猿がたくさん生息していて、村の人口より猿の方が多いほどです。

 

 

少し前まではサルが村の家に侵入し食べ物を勝手に漁ったり、村人を襲うこともありました。

村人もサルを追い払うために色々な策を講じましたが、なにせ「北限のサル」は国の天然記念物!

勝手に殺生することもできません。

他にも野生のニホンカモシカなども生息していて、村全体がサファリパークのような雰囲気の時もありました。

今では村人がどんどん減ってサルも餌が無くなったのか?

村におりてくることもなくなりつつあるようです。

 

 

 

夜は親戚の家で賑やかに酒盛りが行われました。

母の従兄弟に当たる親戚の家です。

幼少期は帰省のたびにこの家に遊びに行き楽しく過ごした思い出の場所です。

 

 

アワビ・ホタテ・アイナメ・地元の新鮮な魚介類と美味しいお酒をたくさんいただくことが出来ました。

 

ちなみに地元では「てって」と呼ばれる食べ物をご存じでしょうか?

カワハギを乾燥させたものですが、幼少期はこれがおやつでしたね。

 

 

35年ぶりに食べました。

 

翌日には納骨と法要を行いました。

 

 

いつからあるお墓なのか?誰が眠っているのか?

母はもちろん親戚にもわからないほど古いお墓です。

 

 

母が「血のつながっていない人も入っているんじゃないの?」なんて言っていましたね。

 

 

ここで驚きの儀式が始まります。

納骨と言えばお墓に骨壺ごと納めるのでしょうが、このお墓にはそんなスペースはありません。

墓石の前に30センチ四方の穴が開いていて石の蓋があるだけです。

蓋を開けると、土の上に先祖代々の骨がそのまま収められています。

この穴に親戚が順番に手で祖母の骨を入れていくんです。

 

 

素手で遺骨を拾いながら納めるなんて・・・

もう何度もこんな光景を見ている自分には違和感はありませんが、他の人が見たら「うそでしょ?」なんて思うんでしょうね。

 

 

最後は初孫である私が代表して祖母の遺骨を全て穴に納めました。

やっと祖父と同じお墓に入れてあげることが出来ましたね。

 

無事に納骨が終わったら今度は親戚で大切な話をしていきます。

 

 

もうこの村には祖父母はもちろん、母も叔父さんも戻ることはありません。

長男である叔父は数年前に他界したので母と母の弟の叔父とでこのお墓と残された立派なお家をどうするのか?話し合いが行われました。

 

祖父は墓はもちろん、家を数件、山まで持っています。

ド田舎の資産価値のない土地や建物ばかりです。

固定資産税も安いので持っていて大きな負担にはなりませんが、いつまでも放置するわけにもいきません。

売るとしても買い手などそうそう見つかるわけもありません。

資産価値は1円でしょう。

観光客もほとんど来ないような場所、村には老人しかいません。

こんな場所に残されたお墓と家と山!

結局どうするかの結論は来年の一周忌まで持ち越しとなりましたが、問題は山積みですね。

私の人脈を使って何とかならないものか?これから模索する日々が続きます。

 

 

25年ぶりに訪れた脇野沢。

たくさんの楽しい思い出が詰まった場所に後ろ髪を引かれる思いで翌日には帰路につきました。

また来年来る予定です。

 

 

 

脇野沢のシンボル「鯛島」